捨てる話
4月。新年度の始まる月。
新しい環境に対応するため、(もう終わってるかもしれないけど)人は、不要なものを捨てなければならなくなる。
もう着ない服は捨て、いらない教材はメルカリに出し、住む場所を変え、人は変化に対応していく。
必要のないものだと断言し、お別れする能力。
これは、全ての人に標準装備されているものではない。生きていく過程で、周囲(主に家族)から学び、体得するものだ。
だから、その能力を得られなかった人も、当然存在する。
例として、私を挙げてみる。
うちの両親は、ものを捨てる行為を人に任せる人と、ものを捨てられない人で、つまり良くいえば物持ちがとてもいい。
悪くいえば、うちはゴミ屋敷である。
当然、そんな二人のもとに生まれた私は、家にゴミがあるのは普通だと認識する。幼い頃は、掃除はしたことはあっても、ごみ捨てを手伝ったことがなかった。
しかし、小学生になると、気づく。
「うちで遊ぼうよ!」
友だちの無邪気なお誘いに、ワクワクしながら親の許可を取り、初めて他人の家にお邪魔して。
「キレイだね、○○ちゃんのおうち。」
「そう? あ、私の部屋こっちだよ。」
何事もなく流される私の感動。偶然だと思い、その日は気にしなかったけど。
あの子の家も、この子の家も、キレイで。
そうか、うちが汚いのか、と。
そしてその頃、テレビではゴミ屋敷という言葉が頻繁に流れていた。
テレビっ子だった私は当然、ゴミ屋敷ってなんだろう、と興味をひかれてチャンネルを回して。
取材に行った若手芸人の、大袈裟にも見えるそのリアクションに、自分の普通が他人の異常である事実を目のあたりにした。
それから10年経つ今まで、ゴミ屋敷コンプレックスを抱えて生きてきた。
その間、家に人を呼んだのは、引っ越して間もない頃で荷物が少なかった時のただ一度だけだ。
ネット回線を引いた時とか、マンションの消防点検とか、そういう事務的な状況は、見られたくない一心で、別室にこもっていた。私がこんな家に住んでいるなんて知られたくなかった。
けれど途中で、自分で綺麗にしないと誰も綺麗にしないと気づいて、掃除しよう、何したらいいの?と聞くようになった。
でも、ダメだった。
私には捨てる能力は無かった。
学校では綺麗にできても、家ではできない。
なぜなら、置いているもの全てが、自分が必要だと思うものだったから。
友達から初めてもらったプレゼントをラッピングしていたかわいい包装紙。素敵な色のおはじき。自分で作ったアイロンビーズ。図工で作った粘土の像。
みんな、私のお気に入りだった。
与えてもらった学習机は、すぐに授業プリントでいっぱいになった。
分からなくなったらこれを見ればいい。これは頑張って書いたから置いておきたい。もう使わないけど、使うかもしれないし。
普通の人は使わないものは捨てる。そのことに気づいたのは、恋愛系の本を散々読み漁った頃。
人を好きな気持ちを知った私は、誰もが持つ恋のお悩みを、本に相談した。そして数多の人々の失敗や経験から、多くを学びとった。
そのうちのひとつ。
お別れの時、ちゃんと泣かないと次に進めないから、気持ちを整理するのを忘れないで。
確か、そんな内容だったと思う。
読んでしばらくして、たまたま机に謎のメモ用紙の束を捨てた時、唐突に思い出して。
今、私は、これを捨てることに関して、気持ちの整理がつけられたのか、と思った。
逆に、今までは気持ちの整理をつけられなかったから、ものを捨てられなかったのか、とも。
振り返ってみれば、その時歴史が動いた、と言うべきだろう。
あの気づきがなければ、私は捨てる能力は得られていなかった。
親からものの捨て方を学べなかった私の例を見て、お分かりいただけただろうか。
ものを捨てる能力、つまり、ものとのお別れの気持ちをすぐに整理する能力を、得られない人間もいる。
けれど、自分で身につけられるし、高められる。
これは多分、ほかのどんな能力にも適用できる話だろう。
自分のコンプレックスは、もしかしたら日常の小さな気づきで解決できるかもしれない。
新しい生活は、気づきでいっぱいのはずだ。
この新年度にたくさんのものを捨てられた人なら、多分気づける。
捨てられなかった人には、この文章が役に立ったらいいな。
新生活を始めた人が、いろんなことに気づいて元気になれますように。
もちろん私も、生きられますように。