現状と、父という人間の話
父親も人間なんだなあ、というのを最近よく感じる。
もともとパパっ子だった私にとって、父はずっと憧れの対象だった。何でもできて、何でも知っていて、大きくて、強い。
だからどうしても、色んなところで期待をしてしまうのだけど、等身大の父の姿は別にどこにでもいるおじさんだ。
価値観のアップデートはとうの昔に止めてしまったし、己の考えが正しいと信じてやまない。
自分が家族の中で1番尊重されるべきだし、だからどんな言葉遣いでも許されると思っている。
己の態度が家族をどれほど萎縮させているかなんて考えたこともない。
そういう、どこにでもいるただのおじさんである。
なんならアダルト・チルドレンと呼ばれる部類の中年男性なのかもしれない。
ただの人間なのだ。
そんな父がリモートワークになって早2ヶ月が経った。
依然として毎日父親が家にいるという異常事態のまま、私の日常は戻ってこない。今の生活が新たな日常であることをまだ受け入れられずにいる。
大学はオンライン授業が始まって久しい。教授によって割と差があるものの、通学時間がゼロというのは何かとありがたい。メイクもバイト以外ではする必要が無く、圧倒的に自由な時間が増えた。
良いことも多いのだ。
それでも、父親のいる生活が苦痛だ。
割とストレスが目に見えて現れる方なのだが、実はここ数ヶ月蕁麻疹が止まらない。どれほどストレスに感じているのか、少し笑えるほどだ。もちろん、この社会情勢そのものにも原因はあるのだろうけど。
下手なことをいうと炎上する昨今だが、正味な話、己の目の届く範囲が平和であればそれでいい。
というか、その程度の範囲を見渡す余裕すら持ち合わせていない。
人の心配をできるほど強くないので、程々に目を配りながら、ただひたすらに感染しないように行動している。
自律神経がイカれるので、太陽光は浴びているけれど。
もちろん、故人を悼む気持ちが無いわけではない。志村けん氏の死は悲しかった。けれどもそこに割くリソースは尽きている。
こんな状況なのだから、遅れてやってきた思春期のまがい物のような、父親への反抗心を抑えられないのも仕方ないと受け止められなくて少し過食してしまうのは許されたい。
ただ、生きていれば。
この自粛期間はそれだけを目標にしている。
あわよくば、病院で勤務する全ての方々が少しでも楽になるように生活していられればいいな、と思う。
もちろん、体重が減ってくれるに越したことはないけれども。
こんな日々を、あと何日続けるのかなんて考えるのは諦めたし、ナンセンスだと思う。
だからこそ、父親という人間を含む家族との共同生活をもっと生きやすくするための方法を模索していきたい。
浪人中のあの地獄のような日々とはまた異なった苦痛だが、この先に何か成長が待っている気がする。
無責任に頑張ろうとは言えないが。
お互い生き延びられるよう願っています。