曖昧な話
最近、曖昧って良いことなのでは?と思い始めました。
日本は明治維新以降、西洋文化に憧れて、欧米化がめちゃくちゃ進行した国です。
そこには謎の「英語かっこいい」思想のような、憧れゆえの同一化があったのでしょう。
その頃、日本に「断定って素晴らしい」みたいな風潮がやってきた。
いわゆるイエスノー文化ってやつです。
で、それが現在蔓延してる気がしています。
何も「断定は悪い文化である」と決めつけ(それこそ断定し)たい訳ではありません。
ただ、そこに息苦しさを感じる。
例えば、「性別」という概念。
メディアに取り上げられることで、LGBTが有名になった現在、結局のところ異性愛者なのか同性愛者なのか両性愛者なのか、と結論を迫る場面をテレビ等で目にします。
こういう時に、私にも当てはまるなー、私ってレズなのかバイなのか分かんないなーとモヤモヤしがちなんです。
でも気づきました。
各種メディアでもLGBTQのQまでは取り上げられていない気がしますが、この最後が重要。
なぜならこのQ、クエスチョン、すなわち「よくわかんない」なのです。
めちゃくちゃ曖昧ですが、とても画期的。
苦しまなくていい。そういうの気にしなくていいよ、と言われているかのような曖昧な分類。
これに救われる人って少なくないはずなのに、LGBTで止まっちゃうのは、人が安心を求めてるからではないでしょうか。
断定すると人は安心を覚えます。
なぜなら「正体を知る」ことができるからです。
例えば「ぶつかり男」問題。
Twitterで話題になり、警察も動き出したそうですが、名称がつくことによって一気に事態が好転しました。
この様に、人は「名付けること」で正確に物事を把握し考えられるようになります。
つまりは具体化です。
それゆえ、よく分からないものは、輪郭を取れず、恐怖する。(ある意味、オバケが怖いのもこれに類する気がします。)
だからとりあえず、お前は一体何者なんだ、なんてセリフが出てくるわけです。(例:ロケット団など)
そんなふうに不安を解消できる「断定」ですから、不安を煽る広告に溢れた現代で、流行するのも当たり前かもしれません。そして、曖昧さが失われていくのもまた道理なのかも。
けれど、曖昧であることは悪いことではないはずです。
よく分からないけど好き、とか、嫌いなところもあるけど大嫌いではなくむしろ好ましい、とか、人と人との関係性ではよくある話でしょう。
ファンというほどコンサートには行かないけどテレビに映ってたら見る、とか、文章は好きだけど作者は苦手、とかもあるかもしれません。
好きなのか嫌いなのか、やりたいかやりたくないか、ハッキリしろと言われても出来なくて、どっちでもいいなんてザラです。
むしろ完全に判別できる人の方がやばい。
加えて、諸行無常を忘れてもいけません。つまり、人の心はうつろうし、数年で考え方が変わることだってある。
人には常に揺らぎがあって、けれどそれは人の可能性でもある。
だから、曖昧って良いことだと思います。
ただもちろん、はっきりすべきこともあります。
だから、そこをきちんと判断していけるようになれたら、ハッピーになれると思うので、これからまた考えていきたいです。